8月26日にリリースされた、evening cinemaにとって2年半ぶりのアルバム『AESTHETICS』。作品のテーマとなっている「程よく不合理であることが人間らしさの条件である」という、バンドのボーカリスト&ソングライター・原田夏樹の考え方や人間に対する眼差しについて深く話を聞いた。
これまで原田は、日本のポップス史から名曲や名フレーズを掘り起こし、自らの感性と知性で音を繋ぎ合わせて言葉を紡ぎながら、今の時代の機材やテクノロジーを使って現在の歌として鳴らすことを意識的にやってきた。彼は、日本の名曲を現代に伝えること、日本の歴史を継ぐことの役目を自ら担い、そうして書いた曲が評価されないことに対する責任も重たく背負い続けていたように思う。そこから意識は前進し、今作では、膨大な量の過去の産物と同時に、同時代の幅広い世界(欧米に限らず、“summertime”が受け入れられた東南アジアも含む)にも触れて、時代や国を問わず「人間に共通している美とはなにか」「人間が美と感じるものはなにか」を追究して音楽で表現している。
『AESTHETICS』の全曲解説とともに、原田の思考とアルバムを徹底解剖したインタビューをお届けする。
(インタビュー・テキスト:矢島由佳子)

「程よく不合理であることが人間らしさの条件であり、生きる術だ」
―原田さんはこれまでもテーマを持ってアルバムを作られていて、今回『AESTHETICS』は「程よく不合理であることが人間らしさの条件である」だそうですが、なぜこういったテーマを考えたんですか?
原田:これはよく考えていたことでもあるんですけど、人間って、頭ではわかっているのにできないことがあるじゃないですか。
―いっぱいありますね。
原田:一番わかりやすい例で言うと、お酒を飲みすぎるのは体によくないってわかっていても飲んじゃう、みたいな。意思の弱さみたいなものって、きっと完全に合理化されたAIだったら起こらないじゃないですか。でも人間は、体に悪いってわかってても飲んじゃう。冷静に理性を働かせて論理的に考えれば答えを導き出せることでも、それに反することをやってしまうんですよね。
「AIは恋愛をするのかな?」とかも考えます。恋愛って普通に考えたら効率悪いし、ちゃんとプログラムが組み込まれたAIだったら恋愛なんてしないんじゃないかなとも思うんですよ。そういう「無駄じゃね?」ってこととか役に立たないことを進んでしようとするのって、人間しかいないんじゃないかなって。そういうことを作品にしたいと思っていました。
―不合理なことが排除されがちになってる世の中だなって感じますか?
原田:ひしひしと感じます。僕、博士課程に進んで今も大学院にいるんですけど、人文系の文学の中の哲学なので、基本的に国から予算が下りにくいんですよ。なぜかと言うと、役に立たないから。でも僕はこの半年間コロナ禍を過ごして、やっぱり思想系の学問って大事なんじゃないかと思うようになったんですよね。
―それはなぜ?
原田:音楽もそうですけど、 本来金になるようなものではないんですよ。音楽を金儲けのツールとして考えているんだったら、音楽家になるよりもっといい方法が絶対にあって。でも実用性とは別のところに、 芸術とか文学の尊さみたいなものが担保されるべきだと思ってるんです。音楽とか文学とか思想系の学問って、すぐ金になるという点では役に立たないけど、人生を豊かにするという観点ではすごく役に立つんじゃないかと思う。
数字とか計量化できるものとは別の領域をすごく大切にしたいっていう想いがありますね。数値化するって、暴力だとも思ってて。個人を殺すわけじゃないですか、数字に置き換えると。人の心とかって、数字には置き換えられないから美しいし。そういうことをぼんやりと歌いたかったんだと思います。
―“未完成の美学”では、<程よく不合理を それが生きる術だ>という一行がありますね。不合理であることが「生きる術」でもあるというのは、どういう発想からきていますか?
原田:「理屈ではこうだけど、生きていく上ではこれくらいズレたことをやったほうが上手くいくときもあるよね」みたいな。それが生きる術ですね。
ちょっと飛躍した話をすると、僕らは悪いことをしなければ生きてはいけないと思ってるんですよ。逆に、生きてるのに「僕は一切悪を冒してませんよ」って言う人は、ちょっと鈍感か、よっぽど聖人かのどっちかだと僕は思っていて。そういうのを自覚するかどうかで、人生に差が出ると思ってるんです。
それに、たまに道徳的には悪いことをしちゃうんだけど、でも自分の人生をトータルで豊かにするためにはそれが結果オーライになってる場合もあるわけじゃないですか。「適当に生きていいんだよ」とか「いけないことをどんどんやっちゃいなよ」という意味ではなくて、「自分はよくないことをしてるよね」ということを葛藤しながら生きると、ワンランクの上の人間になれるんじゃないかなって。人間は悪いことや不合理であることを行動しちゃってるということを引き受けて生きていきましょうね、という意味ですね。

日本人の音楽家として、音楽作りの柱にしている2つのこと
―サウンドの作り方について聞くと、原田さんはこれまで「分母分子論」で言うと「日本史の上に日本史を作る」ということを意識されてましたけど(※1)、今作ではどうですか?
原田:ちょっと変わったかもしれないですね。世界史分の日本史が、一回分母に来ちゃったかもしれないです。 つまり、洋楽にインスパイアされた日本人がやろうとしてることを、今回は目指しました。
―今はネットやコンテンツの発達によって、莫大な量の過去の産物と、同時代の世界中のものに、簡単に触れられる時代で。時間軸も、距離の軸も、めちゃくちゃ膨大な情報にアクセスできる。“summertime”のヒットによってそれこそ東南アジアの人やカルチャーに触れる機会も増えただろうし、原田さんは時間軸も距離軸も幅広くアンテナを張り巡らした上で、「すべての人間に共通する美とはなにか」「人間が美と感じるものはなにか」を追求してるのだなと、音楽を聴いて感じました。
原田:そうですね。今後作品を作ってく上でも、そこはブレないのかなと。しかも「日本人である」というアイデンティティーを作品のどこかに残したいと僕は思っているんですよね。それを、ただ単に日本語で歌ってるということ以外に求めたいと思っていて。それがなんなのかを探す旅を今している感じですね。
―なにかカケラでも見えてるものはありますか?
原田:今のところ、ひとつの条件は「臭さ」みたいなものだと僕は思ってます。漫才師の出囃子みたいに聴こえかねないものが、かっこよく化けるっていうのが日本のポップスなんじゃないのかなって。メロディー+歌い回しから、その「臭さ」が醸し出るんじゃないかなと思います。
大滝(詠一)さんの昔の作品とかを聴いてると、コミックソングじゃないかって思うような曲とかもたくさんあるし、本人もインタビューでそういうことをおっしゃっていて。曲の書き方からして、コミカルなものを意識してる人なんですよね。そういうものを作れるがひとつの日本らしさなのかなって。「臭さ」は今の僕の音楽作りの柱のひとつですね。
―他に柱にしてるものは?
原田:もうひとつは、「真面目にふざけること」ですね。これは日本に限ったことではなく、ネットを見てると視野が狭くなっちゃってる人が多いなと思ってて。「声がデカい人が正義」みたいなことが成り立ってるので、そういう流れに対して、「全然別のところでどんちゃん騒ぎをしてるんだけど実は一番常識のあることをやってるやつら」みたいなのを、僕は目指したくて。音楽としても、生き方としても。
それを音楽を通して伝えるにはどうしたらいいかという点では……このアルバムには元ネタがたくさんあるんですけど、「この元ネタは誰でもわかるでしょ」みたいな感じでひけらかしちゃうのも、ある種「真面目にふざけること」なのかなと思っているんですよね。「でも、これはアレだよね」みたいなことって、ふざけたことやってるなって思えるかなって。
僕もみんなも「騙されてみようぜ」っていうのもあります。ロマンチックがどうのこうのというのを通底して歌ってるので、ある種自分も騙す必要があるし。フィクションの作品を読むときって、フィクションだってわかってるけど「なんだよ、嘘つきやがって」とは誰も思わないじゃないですか。それと似たようなことだと思う。擬似的にセンチメンタルになったりロマンチックになったりすることを、僕は作品を作るときに率先してやっていてるから、聴く人にも一旦自分を騙して聴いて欲しいって思いますね。


全曲解説
“純愛のレッスン”
―ここからは、全曲解説をやっていこうと思います。まず、1曲目“純愛のレッスン”から。
原田:これは、タイトルを「純愛のレッスン」にするかどうか、結構迷いました。「純愛、バンザイ」って感じに捉えられかねないなと思って。
―ちょっと皮肉が込められているタイトルですよね。
原田:そうですね。そんなに簡単に純愛って言うなよ、っていう曲なんですよね、実は(笑)。
これは次あたり作品を作るときのテーマになる気がしてるんですけど、「汚れなくては生きてはいけない」というか。そういうのを無視したいやつだけが、軽々しく「純愛」って口にできるんじゃないか、というちょっと辛辣な立場で書いた曲です。
恋愛をする中で「君のためにしてあげることだよ」とか「君のためならなんでもできるよ」って口にするのって、それを馬鹿正直に言うか、「本当は自分自身のためにやってるかもしれない」という葛藤や疑念を持ってその言葉を発するかだと、重みが全然違うと思うんですよ。それは前のアルバムの“原色の街”でも歌っていたことなんですけど。そういうことを考えると、あんまり軽々しく純愛とかって言えなくなっちゃうよね、という不安要素が大きい曲なんですよね。ただ、完全体としての純愛なんてないのかもしれないけど、それを目指す姿勢は美しいよね、って。
―サウンド面に関しては、リファレンスにしたアーティストを1組だけでも教えてもらうことはできますか?
原田:Anderson .Paak。サウンド面だと、この曲が一番今の洋楽っぽくなったんじゃないかなって自分的には思います。たとえば<(懐疑論は放棄して、誠実さを持ち寄ろう)>のところとか、こんなに言葉を詰め込んだことって多分これまでなかったんですよ。あれって、典型的な日本の歌謡にはなかったものだから。そういうのを取り入れてみようって思いました。
“ネオンサインが呼んでる”
原田:これはサウンド面だと「山下達郎先生ありがとうございます」って感じなんですけど(笑)。ただ、これは達郎さんとか大滝さんがおっしゃってることですけど、「いい曲を10曲集めれば、そりゃいい曲ができる」という信念のもとで、元ネタがひとつなのはあまりにも心もとないし劣化版コピーになりかねないので、そこらへんは意識してます。コーラスでは、実は米米CLUBを引っ張ってきたり。
―サビの歌い回し、刻み方が、evening cinemaの中では新鮮だなと思いました。
原田:サビの最初のラインとかは、あんまり誰かを意識ししたわけじゃないんですけど、これまでとちょっと違う刻み方をしてみたいなって思って。
―歌詞に関しては、どういうところから着想したストーリーですか?
原田:これは数少ない実体験に基づかない歌詞ですね。“わがまま”とかでもやってるんですけど、1番のメロ部分が男で、2番のメロ部分が女の子という形式。えげつない言い方をしちゃうと、キャバクラや水商売で働いてる女の子、もしくはアイドルの女の子に、恋をしてしまった男の目線なんですよね。なので、ちょっとストーカーっぽくなっちゃいそうな危うさもはらんでいるんですけど。「ネオンサインが呼んでる」というのは、ある種の象徴というか、夜の街に呼ばれてるのはそこにあの子がいるから、という意味なんです。この曲はみんな「いい曲だね」って言ってくれるし、自分でも、次のフルアルバムを出すときとかにバージョン違いを作って録り直すことがあり得るくらい気に入ってます。
“Last Chance”
―“Last Chance”は書き方が他の曲とはちょっと違うなと感じました。さっきの話にあったように、「日本史を分母に日本史を作る」という手法ではなくて、洋楽の歴史が見えてくるというか。
原田:これは一番バンドメンバー、特に山ちゃん以外の二人を振り向かせてやろうと思って書いた曲ですね。だからちょっと違うことをやってみたんです。サビに入ると結局イブシネなんですけど。
あと、これまでは詞先でしたけど、最近は歌詞と曲を並行して作ることが多くて。でも、これは完全に歌詞があとでした。メロディーを作ってから詞を乗っけたので、一見すると「なに言ってるんだ?」ってところもあるんですけど、それも味かなって。メッセージも込めてはいますけど、ノリを大事にして作った曲ですね。
―「ラストチャンス」という言葉を聴いた人がどう捉えるか、そこに余白がある歌詞の書き方だなと思いました。
原田:ラストチャンスという言葉をどう感じるかって、二極化するじゃないですか。「ラストチャンスだよ」って言われて、「よかった、あと一回あるのか!」って思える人と、「ヤバい、もうあとがない!」って思う人。「ラストチャンスだ、やべーよ」と思ってる人に、ここを<グッと堪えて>大丈夫だよって、安直に応援しちゃってる曲ですね。僕は恋愛でも人生でも、苦しんでるときを楽しもうとしてる人間なので、この曲もそういう歌になりました。ラストチャンスって苦しいけど、まあなんとかなるっしょって。僕は浪人したときが一番人生で焦ったラストチャンスだったんですけど(笑)。
“未完成の美学”
―“未完成の美学”は、アルバムの中でも最初のほうにできていた曲ですか?
原田:そうですね。2018年の暮れとかにはできてました。
―「未完成の美学」という言葉はいろんな解釈の仕方ができますよね。未完成であることが美しいという捉え方もできれば、自分の美学はまだ完成しきっていないといった捉え方もできる。原田さんとしては、どういう思考がありました?
原田:どこまでいっても「これで十分」ということはないんだよ、っていう意味での「未完成」ですね。そういう姿勢を貫くのは美しいことだという意味での「美学」です。
イチローさんが引退された時期と近いときにできた曲でもあって。第一線で活躍してきた超人みたいな人でも、「これで十分」ってことはないんだという姿勢で練習されてるじゃないですか。しかも、引退するときに「僕は野球の研究者になりたいんだ」って言いましたよね。これだけ言われたら参っちゃうなって思いました。もし僕が満足したり完成したと思ったら、それは音楽をやめるときですね。
―私は以前から原田さんと接する機会をいただいてますけど……自分は未完成であると自覚し続けることや、他者や物事に対して謙虚であることって、言葉で言うのは簡単ですけどなかなか貫けることではなくて。でも、原田さんは本当にそれを体現されている方だということを、これまでの会話の中に表れる姿勢からもひしひしと感じています。
原田:いやー、葛藤するときもありますし、堕落してるなって思うときもありますけどね(笑)。
―最後のDメロのボーカルの鳴らし方や歌詞の構造は、この曲がグッとくる大きなポイントですよね。ここは、どういう意図がありましたか?
原田:そこまでの歌詞には困難要素があって、最後はそれまでとは毛色が変わったことを言いたいなという想いもありました。<いやな事は全て無視しようぜ>とか、最初から言ってしまうと元も子もないんですよ。「開き直ってるじゃん」とか「何も考えてないじゃん」って言われる。僕は、空想的なロマンチストではありたくなくて。リアリストに基づいたロマンチストでありたいと思ってるんですよ。なので、困難を踏まえた上で夢見ようぜって、僕は言いたい。そういう構造です。
ボーカルワークも、それまでと同じようにリードボーカル一本を全面に出したような感じでいってもよかったんですけど、そのテンションで存在感を出してしまうと元も子もないなって思ったんですよね。ある種ガヤガヤしてた中で歌ってるほうが、そういう「フリをしてる感」が出るかなって。それを意図しました。
“去り際はやさしく”
原田:“去り際はやさしく”は最後のほうにできた曲なんですよね。このアルバムの中では最近できた曲で。
これはサビだけ詞先ですね。<ありがとね さよならね>って。すべての恋愛において、それがいいものだったかどうかは去り際に出ると思って書きました。終わってしまったあとに、「でも僕は誇らしかったけどね」って言えるかどうかは、去り際にすべてが出ると思っているんです。
―たしかに、恋愛に限らず何事もそうかもしれない。これはこの曲の本質とは少しズレる質問かもしれないけど、原田さんは自分の<生まれた時代>をどう捉えてますか?
原田:なんだかんだで今が一番いいってなっちゃうかもしれないけど、僕は親と同じ時代に生まれたかったなってすごく思います。
―それはなぜ?
原田:やっぱり僕は、車に乗りながらラジカセでヤマタツをかけて青春を過ごしてみたかったなと思いますね。ディスコにも行ってみたかったし。なぜだかわからないんですけど、あの時代にすごく惹かれます。今の時代のほうが絶対に便利なはずだし、駅の掲示板とか、今からすれば効率の悪いことばかりなんだけど、ああいう経験が僕にはないので昔がすごく生き生きして見えてしまうんですよ。全面的に今を否定したいわけではないし、ノスタルジックになるのはよくないと思うんですけど、生まれた時代を呪ってる側の人間です。
ただ、今この時代を生きてる身として、「あの頃の感じをもう一度取り戻そうぜ」というほうにいくのも違うと思うから。クレヨンしんちゃんの映画(『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲』)みたいに「21世紀を俺たちは生きる!」っていうテンションで、アップデートはしたいなって思っています。
“大人になるまで”
―“大人になるまで”は先行配信された楽曲でもありますが、最初の1音から最後の1音までめちゃくちゃ緻密に作り込まれている曲だと感じました。
原田:詰め込みましたね。実は、僕はこの曲をアルバムに入れるつもりなかったんですけど、山本くんが「これいいよ」って激推ししてきたから入れることにして、レコーディングしてみたらすごくよくなって。自分でもびっくりしてるし、やっぱりバンドメンバーがいてよかったって思いました。一人でやってたら、この曲はアルバムに入れてないですね。
―特にトークボックスの音が特徴的ですね。
原田:蔦谷(好位置)さんがSNSで触れてくださってた通りなんですけど、これはDaft Punkをやろうと思って。やっぱりバレるんだなって思いました(笑)。
原田:サビは典型的なポップスで、2サビが終わったあたりでガラッと世界を変えたいと思って、こんな感じで作りました。
―一聴するとギターソロかなと思いきや、よく聴くとトークボックスじゃん! っていう。
原田:最初はギターでやってもらおうと思ってたんですけど、なんか違うんだよなってなって、isokenの紹介でトークボックスを持ってる人に頼んだらばっちりハマって。
―Daft Punk以外のリファレンスや引用元は?
原田:最後のアウトロとかは、“Last Christmas”のフレーズ。厳密には違うフレーズを辿ってるんですけど、似たようなフレーズを入れたりしました。あとはAメロ部分を、高いほうか低いほうどっちで歌ってるかわからないくらいの音量感にしたんですよ。それは、最近だと星野源さんの曲に結構あって。
Aメロは、日曜の夕方6時くらいの感じを出したかったんです。『ちびまる子ちゃん』くらいの時間帯をイメージしました。さくらももこさんが亡くなったのも2018年でしたけど、大ファンだったからショックで。それに触発されて、「『コジコジ』か『ちびまる子ちゃん』のエンディングを歌うならこういう曲」というテーマで書きました。
電気グルーヴの“ポケットカウボーイ”が『コジコジ』のエンディングになってたときに、「こんな変な曲なのに子ども番組のエンディングになってるってすごい!」ってグッときて。イントロのポンポコ言ってるシンセとかは、ちょっと電気グルーヴチックなアナログのシンセばかりを使って、ああいう音を組み立てました。
―歌詞に関してはいかがですか?
原田:これは手垢のついた言葉ですけど、「大人になるとはなにかを諦めることを覚えることだよ」ってよく言うじゃないですか。それが大人になることだとするならば、別になれなくてもいいかな、という感情で書きました。これはしたり顔で言ったら暴論だと思うけど、恋をするには若さも必要だっていう気持ちだけは老いることなく歳を重ねていきたい。
中学とか高校の「青春時代」と呼ばれるような頃って、思い出すと恥ずかしくなっちゃうんですけど、恥ずかしいものの蓋を開けてもう一回その頃と向き合って書いた歌詞です。だから他の曲とはちょっと違った思い入れがありますね。あとで思い出したら恥ずかしくなることというのは、青春のひとつの本質かなと思っていて。恥を恥だと思ってやれることは若さの特権だと思う。「青春バンザイ」みたいなことを伝えたかった曲ですね。
※1:
evening cinemaインタビュー 日本のポップス史を継ぐ新たな才能(CINRA.NET)
◆インタビュー(1)
◆インタビュー(2):
◆evening cinema各種リンク
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